映画「スリー・ビルボード」最後まで見届けろ
冒頭ですぐに、娘を惨殺された主人公ミルドレッドの気持ちに同化してしまうけれど、そんな単純な気持ちでは観ていられなくなる。
「犯人逮捕はまだ?」
田舎町の小道に壮大な3つの看板にでかでかと名指しされた警察署長*1は、実はガンで余命幾ばくもないことを知らされるからだ。(あっネタバレなのかこれ?)
ブランコに乗りながらミルドレッドと署長が向き合う…これってあれじゃね?黒澤明のあの「生きる」じゃね??オマージュじゃね?あれは志村喬ひとりのシーンだけど。
"怠慢な警察が余命を知って急に仕事やり遂げちゃう"ってやつじゃね?とか膝を打ったんだけど、それもバーンッてひっくり返された。
なんつうか、浅はかだな、私は…。
嫌な奴ばっかりなんだ
なんかもう可哀想なはずのミルドレッドなんか仕方ないんだけど、それにしたってずっと険しい顔して肩で風切ってるみたいな態度で、観ていてイライラするくらい粗暴なんだ。それくらいの覚悟で始めた戦いだよ、そうだけど、それでももっと柔らかい作戦もあったっていいんじゃないの、どうしてどんどん過激になって行くの…なんてのが甘っちょろいんだけど私もさ。
別れた夫もイケ好かない。警察署長以外の警官は全員クズ。もう救いようのないディクソンはクズ・オブ・クズ。
いつかこのくすぶる気持ちが晴れる、爽快な展開と結末があるはずって観てるのにどんどん塞いでくる。むしろ何の話だっけこれ?ていう破壊的な行為の応酬が展開していくばかり…やめて、やめてくれ、もうやめてくれ…って頭掻き毟りたくなる。
署長の遺書、見知らぬメキシコ人や侮辱されまくる有色人種や身体的特徴のある人間や、看板管理会社のレッドは細っちょでまつ毛カールの可愛い男の子、ミルドレッドの息子くん(「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の甥っ子くんだったよ!)、署長の家族、後から来た署長…大丈夫、ちゃんとしてる人だっている。
だけど忘れてしまうんだよ。あまりにも町中に悪意や偏見が満ちていて…。
アメリカの何処のいつの時代の話なのよ?
アナログな車とか誰のための土産物屋とか、あらゆる酷い差別とか…
あれれ、いやいやナウオンタイムみたいっす。アメリカ南部、少なくとも80年代を昔話として出してくる会話、現代の話みたいっす。(「世界の警察」を自称する国の話だぞ。(フィクションだけど))
つらい
でも観続ける価値がある。そうしないとつらいままだ。
人は「耐えること」「赦すこと」を知ってる。いつかそれを胸に刻みなおすこともできる。気付かずに死んでしまうかもしれないけど。気付いても間に合わないかもしれないけど。ギリギリ。「耐えて」「生きて」「赦し合う」ことが出来る。
最後までスッキリしたことは起こらない。クズが変わっても事実は変わらない。涙がぽろぽろ溢れる。(言わずと知れた涙腺バカだからですけども)
それでも最後まで観なきゃならない。生きなきゃならない。
怒りや憎しみが瓦解しない事実はある。生きてたら絶対にある。そういうことに直面して苦悶する。正直になることが苦しいときもある、強くなければならないときもある。でも負けてしまうときもある。
人の心は自分にもままならない。行いも同じ。
だから、耐えて赦し合うしかない。自らも赦して解放しなきゃならない。
ゴールがない。修行かよ。
ああ、苦しかった。
次はちょっと幸せな気持ちになる映画を観たい。
追記
ふと思い出したんだけど、鹿のシーン必要やったかいな…?もっそい合成感やってん…(あ、ちゃんとウルウルしたんだけどね)
映画「ルイの9番目の人生」
子どものほのぼの映画が嫌いなわけではないんだけど、ミステリー(*1)だしそういうのはごめんだなぁと思いながら鑑賞。
結果、そういうんでなかったしなかなか面白かったので〇。
公式サイトはあんまり参考にしない方がいい気がするので、予告編だけ。
主人公のルイは「変わっている」と言うより捻くれ屋で屁理屈屋でこまっしゃくれもんで…いや「こまっしゃくれ」て実際どう言う意味だっけ?ってググったらなかなか当たりだった。
ルイは完全に「こまっしゃくれもん」だ。いわゆる「勘のいい子供は嫌いだよ」みたいな。
母親に連れて行かれたセラピスト(精神科医)のペレーズに対してもとてつもなく失礼だ。観ていてなんだか不快になる。たとえペレーズがでっぷりと太っていて椅子をキーキー言わせて貧乏ゆすりをし、ご飯の食べ方が汚らしくとも、それをズケズケ言葉にするのは普通じゃない。ルイは立て板に水の如くすらすらとdisる(笑)。
でもペレーズはそんなルイの無礼な物言いに当然ながら怯むことなく、そしてルイ自身を否定したり責めたりもせず、話を引き出して行く。日を追うごとにルイが心を開いているのが伝わってきて、セラピーのシーンがどんどん面白くなっていた。
それは突然あっけなく終わってしまうのだけど。
両親ともに怪しい。
母ちゃんはメンタル不安定だし、父ちゃんは酒好きの乱暴者っぽい(ぽいってだけでそこをやたら誇張して表現してるんだけど)。
そして昏睡状態に陥ったルイを診る昏睡専門医パスカルが冗談みたいに頭(身体か!)が緩い。妻と上手く行ってないとしても緩い。尚、劇中パスカルの初登場は「TED」でのスピーチシーン(笑)。著名な専門家という植え付けをされるので、余計にその行動の軽さに半笑いになってしまった。これ、監督の術にハマってるのかしら…?
担ぎ込まれた病院で緊急処置をした医師はパスカルと親しいらしく、この人もなんか人としていい感じがしない。事件に直接関係ないとは分かってるけどイラッとする。
担当刑事の女性は過ぎるほど下品。美人でスタイルもいいんだけど、口が悪い。それが嫌ってことではないけど…いい気分じゃない。
後半登場する、父ちゃんの母ちゃん(ルイの祖母)も、病院で揉め事起こす様な粗野な人物として描かれてる。
要するに「ロクな大人が出てこんな!」ていうことだな。(書いてて気付いた)
進んで行くうちにだいたい察しは付いてくる。
唐突に現れる怪物(ちょっとファンタジー要素が挿入される感じ)にはギョッとしたけど、なるほどその正体もなんとなく想像出来てくる。公式サイトのあらすじではものすごい謎が渦巻いているように書かれてるけど、私にはミステリー(じゃあなかったけどw)としては浅いなぁって感じた。登場人物は少ないし謎の正体についての予想はそれほど難くない。「衝撃のラスト9分!」ていう文言も「ん?9分てどこからだろ?」てなる。そんな衝撃だったかなっていう…
ただ揃いも揃って出来損ないの大人たちのあまりにもバカバカしい行動や、頭のいいルイの喋りには興味がそそられて、飽きずに観ていられた。ラストのルイの決断にはちょっとハラハラ。そして回想の父ちゃんとのくだりではうるっとしたり(でも涙腺バカは発動しなかったんだなこれが(笑))。
子供ながらに深い考察、身の回りの状況を把握して感じていることを流暢に語るルイの長台詞は見事。それを観に行くだけでもいいかも。そしてルイなりに理解しているルールをもう一度きちんと聞きたい気もする。どのくらい筋が通ってるのか、実はちょっと分からなかった…
*1:あ、「ラスト9分。”彼”の口から語られる驚愕の真実に心揺さぶられる、衝撃の心理サスペンス。」だって。…ミステリーじゃないのか、サスペンスなのか!あーーーははははは、ハラハラしたよ、うん、ちゃんとドキドキした!
思い出す
子猫の口臭問題。我が家に迎えて気付いて以来、四六時中そのことが頭を離れることがない。一度は決意して抜歯手術の予約もしたが、あと2週間という所でキャンセルした。
自分のことではないから、決め難い。
猫にとっての口腔内の問題の大きさ、その解決方法が手術一択なのかという疑問、手術によって本当に改善するのかという不安、成猫になって治まって行くのでは?という期待。
前の猫を最期に夜間対応で診ていただいた病院へセカンドオピニオンをと思いつつ、考えあぐねる。子猫は極端に臆病で、前の猫よりも更に病院嫌いだ。気が滅入る。あの時のことも思い出すかもしれないし。
考えているうちに結局前の猫を連れて行った時のことに囚われしまう。
あの日、猫はまだ苦しみながらも意識はしっかりしていて、帰宅した私にすがってきた。動転した私はスマホにかじりついて夜間診療の病院を探し、気もそぞろに猫をキャリーに詰め込んでいた。
もっと落ち着いて猫を安心させてあげられなかったろうか。「酷いことになる」という予感に駆られたなら、なおさら丁寧に包んであげたらよかったのだ。猫は苦しみと不安で鳴いていたのだ。すがっていたのだ。そこを汲み取る余裕がなかった。
仕方がない事と思いつつも、後悔が襲ってくる。
最悪の結果になるのなら、病院に行かずにずっと抱いてあげていたらよかった。でも病院に行けば苦痛を取り除けるのではという気持ちが先に立ってしまった。すぐにでもそこに対処したかった。それは私の都合で、猫は私という存在に頼ってすがりついていたのだ。私はその気持ちに応えてあげられなかった。
大嫌いなキャリーに詰め込まれ、大嫌いな病院へ向かう。弱弱しく訴えてくる鳴き声に、私は何を答えていたんだろうか。タクシーに乗り込んで運転手とのやり取りに苛立ちや苦痛を感じていたことばかり思い出される。早く病院に辿り着きたい。この悲鳴を止めてあげたい。苦しみを無くしてあげたい。
全部自分の都合だ。
猫はどこにも行きたくなかったんだ。
落ち着いて対処できる人なんているんだろうかと思う。プロじゃない。猫と同様、不安と恐怖に飲みこまれてしまっている状況で。
私は人や人じゃない生き物に対しては感情が先に立つ性質なので、一緒になって苦しんでしまうのだ。そんな人間が、苦悶にあえぐ動物を前にしてどうしたら心を平静に保ち対処できるんだろうか。これまでも多くの動物を見送って来たけれど、いつだって感情に呑まれていたと思う。
この気持ちは、今後のそういった事態に活かせるのだろうか。猫の死で初めてそう言うことを思った。
ふらついて私の傍らに辿り着いた猫。私は悲鳴に近い声を上げてパニックになりながらスマホを掴んでいる。苦痛と不安に襲われている猫は更に恐怖に陥っていたろう。
4ヶ月を過ぎて、あの時の光景が俯瞰で見える。腰が抜けた猫、狂う私。
今、それを泣いたからってなんだっていうんだ。
もう取り返しのつかない時間だ。猫は還って来ない。気持ちも行動もやり直しはきかない。命も時間も戻らない。自分を責めても悔いても、意味はない。
だから、あの時の病院に行くのが怖い。
子猫のこれからを考えねばならないのに、何をやっているのだ私は。
2017年2月
2017年12月
映画「キングスマン ゴールデンサークル」
1作目でタロン・エガートンに惚れて、魔法が解けたら「あれれ?そんないい男だった?」とかなっちゃったんだけど、そんな中コリン・ファース演じるハリーの復活を聞いて興奮して待ってた。
タロンよりトム・ホランドだわ…
…まあいいんだけど。
んで、宣材が揃う頃にはコリン・ファースなんでこんなかっちょええん?てなるわけだ。
187cmの長身足長、57歳とは思えぬ身のこなし(スタントってのはこの際考えないでおこうよ)、スッと立ってるだけで紳士の佇まいが滲み出る…美しい…
そして何より瞳が大きい。記憶を失っているシーンで幾度となくアップか映される度、幼子の様な瞳にキュンキュンでした。57歳なんだけど。
脇役が多いと思ってたのはまあ、思い返すとそういうのばっかり観てたってことかな。「ブリジット・ジョーンズの日記シリーズ」は1作も観てないしアカデミー獲った「英国王のスピーチ」も食指動かず。えっ出てた?くらいの「裏切りのサーカス」はベネディクト・カンバーバッチさんとかトム・ハーディに目が行ってた。
いやぁすまん、コリンさん!「モネ・ゲーム」はむっちゃくちゃ面白かったし「デビルズ・ノット」は渋かった!渋かったよ!
ハリーの様に颯爽としてないから全然印象が違うけど!!
(このショット、まだ記憶が戻ってないおじさんなんだけど、この時の片目の瞳がつぶらでかわいくてたまらんのだ、観て!)
てことでなんで俳優さんの話ばっかりかって言うと、なんだろ、あんまり特筆すべき所がなくて…や、すっごい面白かったよ!面白かったけど、なんかどこか好かんかった…どこがって何が?を上手く言えない。
イギリス紳士のスマートなスパイ映画ではないんだ。1作目はそうだったけど。今回は違うんだ。
1作目だってそりゃめちゃくちゃだった。最後の首爆弾炸裂とか、ブラック極まりなかった。でもそれも含めてクールで破茶滅茶で、あっはっはっはって大笑いしてスッキリした。
やっぱりドラッグの話だったからなのかなって。多くの麻薬使用者を人質に自らのドラッグビジネスの合法化を逼るポピー(このジュリアン・ムーアの振り切った毒々しい可愛らしさはすごかった(笑))が、砂糖やアルコールの依存性の高さを語るくだりで「ん?」て思考が頭をもたげてくる。
キングスマンやステイツマン(今回登場するアメリカ版キングスマン)は何と戦ってるのかが分からなくなってくるんだな。ステイツマンだってさっきの話だと麻薬並みに、いやポピーさんの話によると(洗脳)麻薬以上の依存性の高いアルコールが資金源だし、何もかもを失ったキングスマンはそこに頼って活動をせざるを得ない状況。もう何が正義なのぉおお?っていうもやもやが発生してしまって。
…
…
こんな感じかな?
ちなみに、当然しょっぱなのアクションがすっごいスピード感あってテンション上がるし、クライマックスの裏切り者との対決も複雑なコンビネーションでわくわく間違いなし。(クライマックスのシーンについてはネタバレサイトで「本編観てからの方がいいよ!」ていうのを観ちゃってても面白かったので、ほんとすごいよ!)
(↑これだけで良かったんちゃうのか、自分的な備忘録としても)
あ、あとね、ずーっと思ってたんだけど、タロン・エガートンて首が短いんだよ…トホホ…ていうくらい。うわぁって気付いて気になって気になって堪らないまま観てるところに、ラストの結婚式での衣装が詰襟だったわけ。「あああああ!!!」って声が出そうになるくらい哀しみだったよ…(ほっとけや)
どなたかが呟いてらっしゃった、「秒でアガる、分で下がる」って。そうです、まさにそんな感じでした…(でもタロンの首を観て!!)
振袖騒動の今年の成人の日に思いを巡らした
私は(公の催しものとしての)成人式に行っていないので定義や中身や質などをうんぬん言えないのだけど。
成人の日は駅ビルのお店のアルバイトをして過ごした。他店の同い年のバイト友達がかわるがわる艶やかな振り袖姿を見せに来ていた。皆恥らいつつもぴかぴかの笑顔で、周りからは祝福の声が上がり、とても素敵な光景だった。
母は結婚するまで京都の街なかで暮らしていて、土地柄なのか単なる好みなのか、着物が好きで大量に所有する人だった(今も生きてる)。
兄と私を育てる中でも日常で着物を着ることもあったし、催し物には必ず着物を着ていた。しかし私が中学へ上がる前から父の営む事業が傾いてからは、パートに明け暮れてそれどころではなくなってしまったが。
中高生の多感な時期、家の中は殺伐としていた。父は行き詰った事業を立て直すこともたたむことも出来ずのらりくらりと家に居座り、母は盆も正月も朝から晩まで働いていた。
私は父を忌み嫌ったり憎む以外に出来ることを考えもせず、呑気に高校生活を送っていた。掃除も洗濯も母任せだったし、たまに食事を作る程度。臆病故に悪いことはしないというだけで何の役にも立たない、自虐的な表現だとしても「父同様のごくつぶし」だった。
さて、成人の日の話だった(笑)。
当然友人の間でも成人式の話がちらほら出ていた。勿論振り袖含めてその日の晴れ着についても。わたしは家の財政もあり晴れ着のことなど頭の片隅にもなかった。成人式のなんたるかもピンと来ないし、本当に何にも考えてなかった。
ただ、母は違ったんだろう。時期は覚えていないけれど私を某呉服センターへ連れて行った。
へ?まさか買ってくれる気でいるの??
世間ではもう晴れ着選びも終盤、売れ残りが山積みになるような店内だったと思う。全然好みのものが見つからない。ていうか、どれをとっても到底「そんな金ないわ」と思える値札がついていた。(当時はなんていうか、色も柄も奇抜なものが多かった。現代柄って言うのだろうか。値段もよく知らないけどバブル期ってやつのせいだったからなのかすごかった。)
そもそもこんなものに金を出している場合じゃなかろう、それともいいのがあったらまさか買ってくれるの?いや買えるわけ?
私は気持ちの整理がつかず、「いらない」としっかり言えばいいのか、「買ってくれるなら欲しい」のか、自分でもよく分からなかった。
そしてその日、母は美しい帯締めを手にした。ただ手持ちの現金が足りず私に「あんたお金持ってる?貸して。」と…。「えっ?」「帯はな、ええのがあんねん。その帯にこれは合う」と。
私は大混乱に陥る。
振り袖買うの?
いや買えないよね、あたしにお金借りるとかなにそれ??
じゃこの帯締めなに???
いや振り袖買ってくれたとして、あたしいつ着るの????
いやいやいらなくない?????
目の当たりにした相場に母は打ち砕かれたのだろうか、しばらく何にも言わなくなった。私はというと、そわそわしていたけれど。
あんなの見せられて、やっぱり買わないとか肩透かしもええとこやん?
買わないんやったら連れてかなかったら良かったやん?
なんだろ、「何か買ってもらえるかもっていう期待」って自分の強欲を知る様で認めたくないものだな若さゆえの…
母は。
しかして。
諦めていなかった。
着物フリークの母は。
しばらくして突如某デパートの上階に連れて行かれた。そこは「質流市」という催事場だった。そしてその時の記憶があまりないのだが、とにかく母と私が「これがすごくいい」という品を見つけたのだ。その値札を見てないと思うけど、後日配送着払いで玄関に出た私はその値段をその時知ってしまった。(呉服センターのどうもないもんの半分以下、それでも当時の我が家には大金)
なんていうか、うちにこんなお金あったんかという驚き、申し訳ない有難い困った、複雑すぎて心はパンク状態。家中の小銭までかき集めるように支払っていた気がする。まぁこれも「気がする」だけで記憶が薄いんだけど。
私は先にも書いたが「成人式」の意義が分からなかったし、昔の友人たち(?)と会う気もなかったし、とりあえず参加したいと思わなかったので「写真を撮ろう」という話になった。
かかる費用について思案した結果、「帯が無理や」と言う母を押して、ふたりで協力して着付けることに、髪は美容院へ、成人式当日はバイトするから平日の人の少ない日に撮影することと相成った。
そしてその日まで毎日帯の練習をした。ていうか、母が練習したんだけど(笑)
柄が真ん中に出ないーー
あっちが短いーー
こっちが短いーー
ずってくるーー(*ずれて落ちるの意)…
パジャマの上から何度も何度も帯を結っては解いた。ふたりとも大笑いした。屈託なく笑った。誤解も苛立ちも腹立ちもなかった。
1週間とか10日くらいだったろうか。
後から思うにつけ、私にとってこの時間は幸せだった。(なお母はまだ生きてる)
私は年頃なりの漠然とした不安や悩みや苦しみを、友人はもとより親と共有した事がない。でもそんな人は幾らでもいると思う。
過度な期待をされ、弱みを見せられない性格を親に分かってもらえずに育った人もいるだろう。
そんな色々を拗らせて親との関係に悩む大人も多いだろう。
私はその1人というだけだ。
書きながら思ったけど、今の自分のあらゆる事への至らなさに、親を関連づけるのは無意味だ。
仲良し家族だろうと過保護な親だろうと放任だろうと、いずれひとりの成人となって全ての責を負うのは自分であることは皆同じだ。
辛かったことや幸せだったことは天秤にかけるものではない。それは単に重ねてきた時であって、自分の心を育てたり、社会に出て人として歩き続けるために必要なのは自分のチカラだ。
(もちろん深刻なDVやネグレクトなどの社会問題は別の話。)
親の老い先が見える最近、私は親を嫌ったり恨んだりする事に疲れたなと感じる様になった。私自身も歳を重ね、やっと本当の大人としての自立が出来始めたのかもしれない。
成人の日から30年も過ぎたけど。