いつものように春がくることにいつも戸惑う
先日の強い風雨に、咲いたばかりの木蓮がたくさん落ちていたのを見て悲しくなっていた。でも残ったもっとたくさんの花が青い空に白く輝いてる。
木蓮の花の時期をいつも忘れている。3月だ。
昨夜、急に時間が空いたのでアカデミー作品賞ほか諸々受賞の映画「グリーンブック」を観てきた。週末に予約しようとするといつもプレミアムシートがいっぱいだったのに、レディースデーの午後になっても夕方の回に予約できてラッキーだった。
もっと黒人差別のいわゆる毒々しさのある作品だと思っていたのだけど、もちろんそういう場面はたくさんあったのだけれど、鑑賞後の気持ちがとても優しい。柔らかな時間が淡々と流れて、気付くと自分の中の喜怒哀楽をみんな使って夢中になってあっという間に終わった。終わってしまったことが残念に感じるくらい、とにかく良かった。
序盤で嫌悪しか感じなかったトニーの嫁になりたいっ!!て思いながら帰った。我ながらおかしかった。
数日前から大橋トリオさんファンクラブ会員向けに、ライブ後のMeet&Greetの応募メールが来ていた(なんというのか、ご本人と語り合ったり写真を撮ってもらえる時間、多分だけど)。
抽選に当たりそうなやや小さめホールのチケットはもう譲ってしまった、いやあってもサカナクションのライブに行くから困るんだけども、じゃあNHKホールの方に申し込むかな?いやいやううっん!とか悶々していた。
よく考えたらご本人に会っても恥ずかしいだけだし、ツーショット写真撮られてもやっぱり恥ずかしいだけだし、何を悶々としてるんだ私は?と急に気付いて平常心に戻った。
出社前にアレルギー耳鼻科の受付30分前に来て並んだ。出遅れたとはいえ、いつもより列が3倍くらい長い。花粉症最大瞬間風速100m(普通にピークって言えばいいやな)くらいの時期なのだし当たり前だ。私のアレルゲンには植物がなくて、ただただ巻き添えを食らっていることに損した気になってしまう。お薬がちょうど切れるから致し方なし。
受け取った番号札の数字、これはもう3時間コースに決定だった。受付を済ませて出社した。順番はネットで確認できるので近くなったら行けばいいのだ。タイミングを見計らって昼前に会社を出たものの、結局バスがとても遅くて心臓が破けそうに焦ってしまった。
昼休み終了ギリギリで会社に戻る。日課のお昼寝も出来ず、とても疲れたし眠い。
もう二度と会わないだろうと思っていた人のことを、何年も何年もずーっと考え続けていた。「また会いましょう」という文字はとても不思議だ。何度も何度も読み返すけれど、胸になかなか落ちてこない。お水を飲めばいいのだろうか。
少し冷たい風も、キラキラする陽射しも春だ。
桜は少し早そうですね、この春は。
猫、2匹目のえぐさ…一緒に居てくれてありがとうだよ…
最初に言うけど、つらいけど、きついけど、かわいいがその数万倍って話なので。そこ前提で。ほんと、「すごい」…。
いや、まあもしかしたら猫としては普通なのかもなんだけど。
実は1匹目がとても猫らしくない猫だった。猫には違いなかったが、よく猫飼いのひとに「それは猫じゃないよね?」と訝しがられてた。まあ私にとったら初めて飼った紛れもない猫だし、猫ってこんなもんだと思ってた。若干聞いてた話と違うなー?とは思ってたけど。
簡単に言うと「大人しくて問題を起こさない猫」だった。保護された猫の里親募集に名乗りを上げてすぐに決まった。ただ保護された時の猫風邪を拗らせて入院になったりして、家に来るのは少し延びたけれど、待つ間も迎える気持ちは全く揺らがなかった。
家に連れてこられた日、するっとキャリーから出て来ると家の中を1周し、トイレを確認していた。隠れることもなければ怯えることもなく、問題は初めての猫に緊張で眠れないという私の方だけだった。
以来、記憶を辿れば「これは…!!」というのは、子猫時代に「トイレットペーパーでえらいことになった」という猫飼いにとってはあるあるな話だけ。それもせいぜい2巻を穴だらけにされただけで収まった。言うほど猫じゃらしで遊ばないな?っていうくらいおもちゃにも興味を持たなかった。
「シャーッ」も言わないし、噛まない蹴らない、常に安定のご機嫌、平常心だった。一気にエサを食べてよく吐くという習性だけは難儀したが、人のいない間に何かを盗み食いするとか言うこともなかった。気付くと「触り心地のいいおじいちゃん」と住んでいる様な感じだった。
呼べば返事をし、されど過剰に関わらず、スキンシップは好む。愛らしく優しく癒される存在だった。本当に、4歳くらいで警告された病気(腎臓系)以外に困ったことがないまま、結局その腎臓が原因となり14年でお別れを迎えた。本当に一緒に生きてもらえて、私は素晴らしい人生だと思った。
今の猫。今年夏で2歳。
「非常に猫らしい。いつまでも子猫のように暴れ甘えじゃれる。」
かわいいよおおおおおおおおお
お家にひとりでお留守番させてるのがもう死ぬほどつらいよおおおおおお
蹴らないでぇええええ噛まないでぇええええええええええ
何がしたいのぉおおおおおお
紐食わないでぇえええええええ
口が臭いいいいいいいいい(歯茎悪くていずれは抜歯が必要との医者の見解)
ざっとこんな感じ。
「シャーッ」て怒ったりしないけど、甘えたい欲求が満たされない時の暴君振りはもうどうしていいか分からない程に大荒れ。
だけど、ほんとにかわいい。
猫は人生。と、 岸 政彦氏が言っていた。
出会う猫出会う猫、すべて違うに決まってる。思い通りにならない。
そして、いつか自分より先に居なくなってしまう。
だからこそ一瞬一瞬が愛おしい。
猫、ありがとう。
今の子
TOTO「『40 TRIPS AROUND THE SUN』ツアー」in武道館 難しいことは分からないので感じたことをメモ
ルカサーさん、日本大好きなのはよく分かってるけど、「budoukan」はそろそろちゃんと言えるようになって?(笑)「arigato」はもんのすごくネイティブに近いナチュラルな発音になってたけど…あ、うん、じゅうぶんえらいか!(笑)
遡ってみたら、2014年、2016年に続き3連続の参戦だった。なんか毎回待ちわびてたというのではなくて「ん?まだ買える?」とか「今回どうしよっかな…やっぱ買っとくわ!」みたいなぎりぎりのチケットゲットで、つくづくTOTOに関してはラッキーだと思う。そして毎回「はぁやっぱ好きチョー好き。行って良かった。」って満足。
もう死ぬまで迷わず行こうと思う。
Key
今回はペイチさんが不在…!ペイチさんのピアノほんとに好きで、結構ショックだったな。でも若さ溢れる(?)ゼンヴィアーってピアニストが新鮮だった!ルカサーさんはかなり気に入ってる様子でハイテンションで何度も紹介してた。
後で調べたらプリンスと演ってたらしいのでそんなむちゃくちゃ若いってこともないのかも。(TOTOメンバーの中に入るとね、うん。)
最近ひたすら椎名林檎のバックで活躍するヒイズミマサユ機氏とか伊澤一葉氏のジャズっぽいフリーダムな鍵盤に心酔している。あまりのカッコ良さに震えたり泣いたりしながら動画を延々と観続けてた。クラシック畑だった人間にはやはりあの溢れ出る才能アドリブプレイに憧れが強い。
ゼンヴィアー君のプレイは対して正統派な気がして、それが新鮮だったのかも。指使いまでは武道館2階センター席では見えない。アドリブ風の音運びは不協和音とかシンコペーションがほとんど盛られてなくて、とても美しい旋律だった。もちろん早弾きも余裕でこなすオールマイティさは伝わる実力。
スティーブ・ポーカロさんのシンセは相変わらずキラキラであった…。若干控えめにしてるかも?とは思ったけども。これぞTOTOという音だし、やっぱり80年代サウンド真骨頂。
おじいちゃんになってからは一番かっちょいいスティーブ。スマートでシュっとジャケットを着こなし、白髪のロン毛もめちゃめちゃステキ。他のメンバーはほんと見習っていただきたい。あと、次からは椅子を用意してあげて欲しい(心配)。
先日新しいアルバムを出した大橋トリオさんがラジオでチラッと言っていた「音楽界って古いサウンドをリニューアルして新鮮に聞こえるサイクルがある」て感じの話を思い出す。最近やっと80年代をちょっと取り入れても恥ずかしくないというか、ヤバイ感じにならない時代に入ってきた、微妙なんですけど、と。分かるひとはすぐ分かる、という音が入ってるそうで、なるほど聞けば「これか(笑)」てなった。あのシンセの音。なんでも流行って一周して「懐かしい」から「新鮮」になるものね。
ショワーーン!シャリリリリーン!て音(伝われ!w)80年代の洋楽、DuranDuranやCultureClub、個人的にはKajagoogooが好きで…(完全に逸れてること承知で懐かしさのあまり貼る)
TOTOの分かりやすいのを探してみたけどただ観ることに熱中してしまったので挫折(別に自分のためなのでええんや!)
Drum
昔は大嫌いだったドラム。いや語弊が。苦手だった。
たぶん、下手なバンドでスタジオに入ると一番はしゃいで叩きまわすのがドラマーだったから。うるさくて一切話が出来ない状況になったからだと思う。持ち歩けないし自前の持ってる人はほぼいないからとも分かる。でもまあ、総じてドラマーははしゃぎ過ぎだと思う(強い偏見(プロは知らない))。
客席でめっちゃ歌う人あかん!てブルーノ・マーズの時に書いたけど、ドラムのエアもあかん。音が出てない分まだマシ?いやいや。
動 き が う る さ い ん じゃ!
今回、隣じゃなくて斜め下にいたおっさんお前だ。激しい被害はなかったけど、空のペットボトル振り回しやがる。もし隣ならペットボトル取り上げて遠くにぶん投げて「取りに行って戻って来るな!」って(略)
…
ここ何年かで、ドラムの前に衝立がセットされるステージが増えてると思う。今まではドラムの圧倒的な音量との他のパートのバランスが取りづらく結局全体が爆音になる、という按配だったんだと実感。
あの衝立のおかげで、騒々しさを感じずに済むしそれぞれのパートの音が際立つ。ライブの良さや盛り上がりに「爆音」が必須な訳じゃない。全ての楽器や声のクリアな音が聞き分けられて、なおかつそのアンサンブルに酔うことだと思う。
思えば2016年のツアーのドラマー、キース・カーロックに魅せられた(評価は高くないんだけどね…)。自分の鼓動にそっと覆いかぶさって身体を振動させるような深い打音に感動した。ドラムプレイで感動したのは初めてだった。大大大好きなフィル・コリンズのライブでさえ、ドラムソロタイムは無になって待つくらいにはダメだったのに…(でも最近長いドラムソロとかやってるライブ見てない)
シャノンさんは、やはりはしゃぎ感もなし、クールに美しく打音が聴こえてくる。押してこないドラム、ほんと好き。あんな音が出るのに静かな存在主張ってもう素晴らしい。
「バシャン」というより、高低かかわらず圧があってクリティカルな打音が好きなんだとも思う。ティンバレスの音に惹かれたのもたぶんそういうこと。自分の好みも分かってきた。とにかくドラムに注目するようになった。これって自分の感性に別のページが開いたようでうれしい。
和太鼓(大太鼓)の激震は今も無理。具合が悪くなるのは変わらない。
ギター
エレキギターにも特に惹かれない人生だった。(ほんとこんななぜ洋楽を聴けたのか、我ながら謎)
日本人にも世界から支持される凄いギタリストがいるのは知ってる。でも特にピンとこなかった。TOTOが好きになったのも80年代ロックに親しんだのも、どっちかというとシンセなどの鍵盤の重厚な音色に惹かれたのかなと思ってる。
今回、知らない楽曲が割りとあった。それは勉強不足だったり聴いても以前から好きな曲を押し出すほどに頭に残ってないという理由なのだけど。
それでもドラムとギターを一生懸命摂取していた。なんか感動しすぎてぼんやりしながら「どうしてこんなに聴かせて来るのかなぁ」と思ってた。
ルカサーのギターはひずんでもクリアでも、とにかく頭の中が痺れた。この響かせ方ってエフェクターのおかげ?とか思いつつ、誰のギターでもこんな気持ちになることはなかった。やっぱりルカサーがすごいのでは?に行き着く。服のセンスはないけど。
ステージの世界観が一瞬で変わるギターの響き。ちょっと泣けたんだよね。
パーカッション
レニー・カストロおじいちゃん。パーカッションていつもものすごい種類の楽器の中に埋もれてる感じ。それ全部叩いた?って思うけど、ラストの「africa」で多分やった。多分全部叩いた。あと、オフマイクで叫んでた(笑)すごい声量だったし一瞬で世界持ってかれた。
TOTOのオリジナルメンバーって、ポーカロ兄弟(ジェフ、マイク)は亡くなってしまったし、今回はペイチさんもいないし、もともとスキルがすごいバンドだけどいつもいつもすごいサポートメンバーで情報を得るのが本当に大変。そんなに海外事情も知ってる訳じゃないから、名前調べてwiki行ってないと記事調べて…みたいな。
ルカサーひとりになってもTOTOって言うんだろうけど、みんなほんと、健康に気を付けていつまでも欠けないでいて欲しい…
また来てね。
ベースとかコーラスや管楽器とかオールマイティなひととか、すっ飛ばしちゃったけどすごいんだよ。ちゃんとした解説はこちらでどうぞ(笑)
映画「ある天文学者の恋文」…涙に吞まれない強さ
なかなか逢えないひと、特別なことを共有するひと。自分の人生そのものとも思えるそんな愛しいひとが、自分の知らぬ間にこの世を去っていた-------------
多分めちゃめちゃよくありそうなネタだけど、上手いこと作ってあったなぁ。そもそも涙腺バカにはそのネタの気配だけで泣けてしまうので、ものすごく一生懸命になって感情移入をせぬよう覚悟を決めて観た。
インフルエンザに罹った時のように全身の力が一気に地面に吸い取られる様なしんどさを何度も感じた。
そしていなくなってしまったはずの人から次々とメッセージが届くという謎事態の中、現実が受け止めきれずに次第に虚無に呑まれていく主人公。その気持ちにどうしても同化しそうになる。若干画面を遠ざけたりした(無意味)。
霧の中でもがくかのような彼女の行動力はメッセージと合わさって、彼の死だけでなく自分の人生も受け入れるための時間と原動力になる。長いのか短いのかは分からない。日は暮れ朝は来ているのに、それを数える余裕がない。だから観ている方にもどれだけの日数が経っているのか実感がない。
それにしても、死を覚悟して準備した彼からのギフトには愛と知が満ちている。溢れる幸福と寂寥がない交ぜになって、その深さと力強さに物語を追うことをやめられない。
実は、冷めた目で見てしまうと若干の気持ち悪さがあったりもする。
周到に準備された大量のメッセージやプレゼントはあまりに頻繁かつタイムリーで、何もかも予見していたというより「どこかで見張られているのでは…?」という感覚に襲われてしまう。ミステリーのジャンルも入ってたりするのはそのせいなのかな。
どうやってそれらを準備し死後も届くようになっているのかは、彼女が必死に手繰り寄せて解明されていくんだけど。
やっぱりこれは普通に恋愛映画だ。苦笑
圧倒的な質と量の恋文たちは、喪失の絶望を救うには十分である。そして生前の関係がいかに崇高で濃密であったかを観ている者に思い知らしめる。
彼が生きて主人公と愛を語り育むシーンは冒頭のほんのわずかしか描かれていないのに。
天文学者には、本当に予知能力があるのかも?うっかりそう思ってしまうのだが、まるで彼の病状が同時進行しているかの様にタイミングがずれて行く。
そしてそのことに気付く頃には、彼女はもうほとんどのことを受け入れて、対処する方法を見つけていた。親子ほど歳の離れた優れた学者を骨抜きにするほどには、相当な聡明さなのだ。
途中で何度か突っ伏す勢いで泣いたりしたけど、どうにか立て直せた。そこには多くのディテールの中には、ふたりの高い知性と力強さがあったからだと思う。
とても良い映画だった。
彼女のあだ名(?)が「カミカゼ」だったりカフェで「グリーンティ(緑茶)」を頼むとか、なぜかちょっと日本を匂わせることが散見される。…特に嬉しくもないし必要とも思わないんだけど、「ん?」て気になる(笑)
昭和平成既読スルー
浮き足立つのは自分だけであるこことを痛感する現象だ。LINEというツールは便利でありながら、なんと残酷なのだろうと思う。
話したいことがいつも止まらない。あんまり自分の感情ばかりぶつけても仕方がない。なのに自分のことを話したくなるし、とにかく私は自制をしなければいけない。
相手が何か考え文字を打ち、送信するまでの「吹き出しの間」に相手の気持ちがそのまま表されていると思う。文字がなくても伝わってくる。ただ相手の言葉を聞くためだけに私は黙していなければダメなのだ。
なのに、待たずに文字を打とうとする私の心は混沌とした喧騒に満ちている。話したい気持ちに支配され、相槌もないのに言葉が次々と湧いてきてしまう。文字が追いつかないほどに。我に返って推敲している間にもあふれ出て足もとに散乱する。そのだらしない言葉のカケラに参ってしまう。
面と向かってこんなにたくさん言葉って出てくる…?ああ、私はおしゃべりなので出てきてる、きっと。…参った、処置なしだ。心底自分にうんざりする。
そうやって、遠く離れて生きてきたひとをいつも思う。アカウントを交換してしまったがために、いつもそこに新しい文字を探してしまう。
昭和が終わる少し前に出会った。気付くと2人でいる時間を大切にして、同じ温度と同じ歩幅で並んで歩いた。それは易しい流れにはならなず、落としどころは「ともだち」だった。どちらかが踏み外しそうになる度にゆっくりとぎこちなくなるのを、どうしようもないまま言葉を交わした。そしてそれはそれで楽しくしあわせだった。
若い時(とは限らないけれど)は、1本道を歩くことが不安だ。新しい道は怖いのに、そっちが正しいんじゃないかと揺れてしまう。留まるか逸れるか、迷っているうちに自分の足もとしか見えなくなってしまう。
それでも私たちは言葉が届くところにいたはずだった。しかし気付くと顔を合わせる機会は減り、いつしか砂粒のような点になっていた。
砂粒から絵葉書が来るようになった。遠い空、見たことのない街並み、知っている美術館にはない絵画。宛名面の半分以上に旅や自らの近況がぎっしりと綴られていた。旅のなすパワーだろう。熱量をそのまま受け取るのは難しかった。異国の香りを放つ絵葉書をしばらく眺めて文字を反芻して、自分の心に何かが湧くの感じていた。
書きはじめるとそれは葉書の量ではなく便箋になった。どうにか1枚にまとめても、封書で返事を書くのはどうなのだろう?そう悩みつつポストへ入れた。
そしていつか紙の往復も、ゆっくりと次第に波にさらわれていくように距離を増し、そして紙自体にも重さが増すようだった。
銀河系の中の無数の惑星同士みたいに、どこかでそれぞれの日常は変わらず続いているはずだと感じた。送った言葉も届く言葉も、どの時点で読まれているのか分からない。心の底には熱をもった言葉が沈んでいたけれど、わざわざそこに触れようという気持ちも共に沈めた。
私は何に向かって何を思うのか。存在すらもう確かではない砂粒はどの星のどの海辺にいるのか、街の風の中なのか。
私の視界はあるとき茫洋となり、心を閉じた。
世の中はネット社会になった。誰もかれも蜘蛛の巣のように張り巡らされた通信の先に存在していることになる。蜘蛛の巣は巨大化し、細分化し、その先も明確になる。砂粒もそこにいるはず。なのに強い波に足もとをすくわれて膝をつく。倒れぬようついた手を見ても、あの人はどの砂粒なのかが分からなかった。
地球の月日はいつもの様に過ぎていく。過去も今もこの先も。目も心も閉じてただ息をしてるだけでも。
ある日、紙の報せが私を驚かせた。そのショックが距離も重さも忘れさせメールを送らせた。生命体として不具合を生じたと知らせてきたのだ。あの人は砂粒なんかじゃなかった。異空間を旅する紙ではなく、メールはあっという間に距離という感覚を飛び越える。
どのくらい離れていたんだろう。どのくらい思っていただろう。
昭和の終わりに並んでそぞろ歩いたあの頃の感覚が蘇る。驚くほどに生々しく。心や、触れることのない指先や肩の皮膚の神経がぴりぴりとする。隣に立って歩いていることに言葉では表せない気持ちが湧きあがった。
風や波や桜の花びらの中をただ歩く。美味しいサンドイッチを食べて、笑う。「キレイだね」「美味しいね」という簡単な形容詞しか出てこない。それはお互いの耳に届いて、その後は何も残らない、声。
「変わらないね」と言った気がした。
あの人が?私が?
あの頃よりももっともっと慎重に歩く。もう2度と曲がりも逸れもしないだろう、そして決して交わらない道を歩く。時空は歪んではいなかったけれど、互いにあれこれ身体に不具合が起こるほどに地球時間は経っていた。
別れ際にLINE交換をした。「吹き出しの余白」はふたりの新しい交流だ。文字を打てばすぐにあの人に届く。
でも実際には手紙やメールと同じだ。「送信ボタン」と「ポスト」は同じ。いつどこで読むかも分からない。読まれても相手の心に何が生まれ言葉になるかも分からない。
それなのに「既読」が表示されると、あの人が息をしていることを感じる。名前が表示されているだけで、私はあの人を感じることが出来る。あの人ではない人が読んでもそれは表示されるのに。
バカな錯覚だ、つくづく自分が間抜けだと思う。
距離感が分からない。言葉が届いている事だけしか分からない。
けれどそこは遠い世界かもしれない。
やはりあの人は本当は異次元のどこかの星で暮らしているのかもしれない。ツールが作動しているだけで、本当は受け取る人は同じ空の下にはいないのかもしれない。
既読スルー。
それでもそこに私は多くの思いを馳せる。この「間」は、ふたりだけのものだと信じてしまう。
バカな錯覚と知っていても。
私は異次元の砂粒に向けて文字を送る。