ぎこ記

映画や音楽多め。あとどーでもいいひとりごち

昭和平成既読スルー

浮き足立つのは自分だけであるこことを痛感する現象だ。LINEというツールは便利でありながら、なんと残酷なのだろうと思う。

 

話したいことがいつも止まらない。あんまり自分の感情ばかりぶつけても仕方がない。なのに自分のことを話したくなるし、とにかく私は自制をしなければいけない。

相手が何か考え文字を打ち、送信するまでの「吹き出しの間」に相手の気持ちがそのまま表されていると思う。文字がなくても伝わってくる。ただ相手の言葉を聞くためだけに私は黙していなければダメなのだ。

なのに、待たずに文字を打とうとする私の心は混沌とした喧騒に満ちている。話したい気持ちに支配され、相槌もないのに言葉が次々と湧いてきてしまう。文字が追いつかないほどに。我に返って推敲している間にもあふれ出て足もとに散乱する。そのだらしない言葉のカケラに参ってしまう。

面と向かってこんなにたくさん言葉って出てくる…?ああ、私はおしゃべりなので出てきてる、きっと。…参った、処置なしだ。心底自分にうんざりする。

 

そうやって、遠く離れて生きてきたひとをいつも思う。アカウントを交換してしまったがために、いつもそこに新しい文字を探してしまう。

 

昭和が終わる少し前に出会った。気付くと2人でいる時間を大切にして、同じ温度と同じ歩幅で並んで歩いた。それは易しい流れにはならなず、落としどころは「ともだち」だった。どちらかが踏み外しそうになる度にゆっくりとぎこちなくなるのを、どうしようもないまま言葉を交わした。そしてそれはそれで楽しくしあわせだった。

 

若い時(とは限らないけれど)は、1本道を歩くことが不安だ。新しい道は怖いのに、そっちが正しいんじゃないかと揺れてしまう。留まるか逸れるか、迷っているうちに自分の足もとしか見えなくなってしまう。

それでも私たちは言葉が届くところにいたはずだった。しかし気付くと顔を合わせる機会は減り、いつしか砂粒のような点になっていた。

砂粒から絵葉書が来るようになった。遠い空、見たことのない街並み、知っている美術館にはない絵画。宛名面の半分以上に旅や自らの近況がぎっしりと綴られていた。旅のなすパワーだろう。熱量をそのまま受け取るのは難しかった。異国の香りを放つ絵葉書をしばらく眺めて文字を反芻して、自分の心に何かが湧くの感じていた。

書きはじめるとそれは葉書の量ではなく便箋になった。どうにか1枚にまとめても、封書で返事を書くのはどうなのだろう?そう悩みつつポストへ入れた。

そしていつか紙の往復も、ゆっくりと次第に波にさらわれていくように距離を増し、そして紙自体にも重さが増すようだった。

 

銀河系の中の無数の惑星同士みたいに、どこかでそれぞれの日常は変わらず続いているはずだと感じた。送った言葉も届く言葉も、どの時点で読まれているのか分からない。心の底には熱をもった言葉が沈んでいたけれど、わざわざそこに触れようという気持ちも共に沈めた。

私は何に向かって何を思うのか。存在すらもう確かではない砂粒はどの星のどの海辺にいるのか、街の風の中なのか。

 

私の視界はあるとき茫洋となり、心を閉じた。

 

世の中はネット社会になった。誰もかれも蜘蛛の巣のように張り巡らされた通信の先に存在していることになる。蜘蛛の巣は巨大化し、細分化し、その先も明確になる。砂粒もそこにいるはず。なのに強い波に足もとをすくわれて膝をつく。倒れぬようついた手を見ても、あの人はどの砂粒なのかが分からなかった。

 

地球の月日はいつもの様に過ぎていく。過去も今もこの先も。目も心も閉じてただ息をしてるだけでも。

 

ある日、紙の報せが私を驚かせた。そのショックが距離も重さも忘れさせメールを送らせた。生命体として不具合を生じたと知らせてきたのだ。あの人は砂粒なんかじゃなかった。異空間を旅する紙ではなく、メールはあっという間に距離という感覚を飛び越える。

 

どのくらい離れていたんだろう。どのくらい思っていただろう。

昭和の終わりに並んでそぞろ歩いたあの頃の感覚が蘇る。驚くほどに生々しく。心や、触れることのない指先や肩の皮膚の神経がぴりぴりとする。隣に立って歩いていることに言葉では表せない気持ちが湧きあがった。

風や波や桜の花びらの中をただ歩く。美味しいサンドイッチを食べて、笑う。「キレイだね」「美味しいね」という簡単な形容詞しか出てこない。それはお互いの耳に届いて、その後は何も残らない、声。

「変わらないね」と言った気がした。

あの人が?私が?

 

あの頃よりももっともっと慎重に歩く。もう2度と曲がりも逸れもしないだろう、そして決して交わらない道を歩く。時空は歪んではいなかったけれど、互いにあれこれ身体に不具合が起こるほどに地球時間は経っていた。

 

別れ際にLINE交換をした。「吹き出しの余白」はふたりの新しい交流だ。文字を打てばすぐにあの人に届く。

でも実際には手紙やメールと同じだ。「送信ボタン」と「ポスト」は同じ。いつどこで読むかも分からない。読まれても相手の心に何が生まれ言葉になるかも分からない。

それなのに「既読」が表示されると、あの人が息をしていることを感じる。名前が表示されているだけで、私はあの人を感じることが出来る。あの人ではない人が読んでもそれは表示されるのに。

 

バカな錯覚だ、つくづく自分が間抜けだと思う。

距離感が分からない。言葉が届いている事だけしか分からない。

けれどそこは遠い世界かもしれない。

やはりあの人は本当は異次元のどこかの星で暮らしているのかもしれない。ツールが作動しているだけで、本当は受け取る人は同じ空の下にはいないのかもしれない。

 

既読スルー。

それでもそこに私は多くの思いを馳せる。この「間」は、ふたりだけのものだと信じてしまう。

バカな錯覚と知っていても。

 

私は異次元の砂粒に向けて文字を送る。

 

 

 

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