ぎこ記

映画や音楽多め。あとどーでもいいひとりごち

ボイトレの先生が変わった…堂々巡りつらい

3月末で3年間お世話になったトレーナーさんがスクールを退職された。

本職は歌い手さんであり、詳細は伺っていなかったけれど少なくともトレーナーはメインではなかったと思う。小さい箱ながらライブ活動もされていた。だからいつかそういうことはあるだろうなと覚悟してはいたのだけど、寂しいのはもちろん、自分のこれからのレッスンについて右往左往している。

 

この3年間、私はトレーナーを1度も変更しなかった。何度も壁にぶつかりつつも彼女のレッスンを受け続けた。人見知りもあったし、年齢が近く音楽の趣向も似ていて気持ちが馴染んでからはすっかり仲良くさせていただいた。

私の声に対するめんどくさいコンプレックスや疑問にいつも真剣に向き合い、時に一緒に悩み、私の内側の部分に入って「ぎこさんはこうかな?こうなのかな?」と考えてくださる人だった。ただ、結果的に最後の方は私の中にひどい甘えが慢性的に放出されてしまった。

4月に入って新しいトレーナーさんのレッスンを受けてみて、それを身に染みて実感した。

 

ボイストレーニングはストレートに「歌をうまく歌いたい(高じてプロになりたい)」から、「発声や発音、滑舌をよくしたい」というもの、そして「リラックス」や「ストレス解消」など人によってさまざまな目的がある。私は「とりあえずちゃんと歌えるようになりたい」という気持ちで門を叩いた。「ちゃんと」の定義はあいまいで、当然プロを目指すことなど微塵も考えておらず、そもそもひと様に聴いていただきたいという大それた気持ちすら毛頭なかった。

レッスンを始めてすぐにミックスボイスという具体的な問題にぶつかった。なのでとにかくまずはそれを習得することが目的になった。様々な問題にぶつかり、それを克服することを繰り返してきた。

体調や気分が優れない時はキャンセルをする。でも身体を使って声を出すということは、気持ちがスッキリしたり副交感神経がよく働くようになるという効果もある。会話をたくさんしてお互いの体調や私的な問題についても色々吐露できる関係になっていたので、しんどい時は話したり深い呼吸と発声をしたり軽く歌ったり、ヒーリングのようなとてもいい時間を過ごした。

本当に、私にはとてもいい時間だった。それは間違いない。でもいつしかそれはレッスンという学びの場ではなく、ただ気楽な時間という中途半端なところで満足するようになってしまっていた。

 

 
今、私はすごく悩んでいる。
うやむやにしていた「何のためにレッスンを受けるのか」というところだ。苦手を克服したい。何かを得たい。お金を払ってレッスンを受けるのなら当たり前にそうありたいと思う。けれどそれがとてつもなくしんどい作業であること、これまでの曖昧な臨み方ではそれは達成できないことを、新しいトレーナーによる2回のレッスンで痛感した。
別にこれまでのレッスンが無駄だったということじゃない。私は確かに上達するのを感じていたし、レッスンを受ける前よりもずっと自由に楽しく歌えるようになっていた。苦手な部分も少しずつながら克服して来ていた。ただそれ以上がなかなか達成できなくて甘えに走ったという気もする。
 
上達を目指さないならただの「仲良しお歌ごっこ」だ。なんだそれ(今適当に思いついただけの言葉だけど)。
それでなにが悪いのか。
でもお金払ってるし。
じゃあレッスンやめて友達と楽しくカラオケしてたらいい。
それじゃまた行き詰る…
 
…んんー?
書いているうちになんとなく整理出来て来たかな…。
 
自分一人では見つけられないもの、分からないこと、そういうことは無限にあると思う。レッスンを受けたらそれが簡単に手に入るかと言えばそうじゃない。自分の声は自分にしか変えられない。努力をして探らなければならない。習うとはそういうことだ。そこには絶対しんどさが伴う。
 
お金払ってしんどい思いするのん、なんかイヤ←
 
ああやっぱり答えからまた離れてきた。
 
バランス?
モチベーションは?と問えば「自己満足」だ。「あ、上手く出来た!」ていう感じ。誰に褒めてもらえなくてもいい、「こんな声が出た」とか「こんな歌い方出来た」と実感すること。そしてそれが身に付くこと。
楽しいと感じるために自分でどこまで努力するのか。それはトレーナーからのプレッシャーではなくて、自分で課す努力でなければならない。
 
待て、「でなくてはならない」ってなんだ。
お金をもらう方じゃないのに!
 
 
私、考え過ぎなのかも。
もっと気楽に「趣味として楽しむ」でいいんじゃないか。
待て、習うのなら「技術を身に付けたい」じゃないか。
 
…堂々巡り
 
 
 
とりあえずちょっとカラオケしてくる←