ぎこ記

映画や音楽多め。あとどーでもいいひとりごち

振袖騒動の今年の成人の日に思いを巡らした

私は(公の催しものとしての)成人式に行っていないので定義や中身や質などをうんぬん言えないのだけど。

成人の日は駅ビルのお店のアルバイトをして過ごした。他店の同い年のバイト友達がかわるがわる艶やかな振り袖姿を見せに来ていた。皆恥らいつつもぴかぴかの笑顔で、周りからは祝福の声が上がり、とても素敵な光景だった。

 

母は結婚するまで京都の街なかで暮らしていて、土地柄なのか単なる好みなのか、着物が好きで大量に所有する人だった(今も生きてる)。

兄と私を育てる中でも日常で着物を着ることもあったし、催し物には必ず着物を着ていた。しかし私が中学へ上がる前から父の営む事業が傾いてからは、パートに明け暮れてそれどころではなくなってしまったが。

 

中高生の多感な時期、家の中は殺伐としていた。父は行き詰った事業を立て直すこともたたむことも出来ずのらりくらりと家に居座り、母は盆も正月も朝から晩まで働いていた。

私は父を忌み嫌ったり憎む以外に出来ることを考えもせず、呑気に高校生活を送っていた。掃除も洗濯も母任せだったし、たまに食事を作る程度。臆病故に悪いことはしないというだけで何の役にも立たない、自虐的な表現だとしても「父同様のごくつぶし」だった。

 

 

さて、成人の日の話だった(笑)。

当然友人の間でも成人式の話がちらほら出ていた。勿論振り袖含めてその日の晴れ着についても。わたしは家の財政もあり晴れ着のことなど頭の片隅にもなかった。成人式のなんたるかもピンと来ないし、本当に何にも考えてなかった。

 

ただ、母は違ったんだろう。時期は覚えていないけれど私を某呉服センターへ連れて行った。

 

へ?まさか買ってくれる気でいるの??

 

世間ではもう晴れ着選びも終盤、売れ残りが山積みになるような店内だったと思う。全然好みのものが見つからない。ていうか、どれをとっても到底「そんな金ないわ」と思える値札がついていた。(当時はなんていうか、色も柄も奇抜なものが多かった。現代柄って言うのだろうか。値段もよく知らないけどバブル期ってやつのせいだったからなのかすごかった。)

 

そもそもこんなものに金を出している場合じゃなかろう、それともいいのがあったらまさか買ってくれるの?いや買えるわけ?

 

私は気持ちの整理がつかず、「いらない」としっかり言えばいいのか、「買ってくれるなら欲しい」のか、自分でもよく分からなかった。

そしてその日、母は美しい帯締めを手にした。ただ手持ちの現金が足りず私に「あんたお金持ってる?貸して。」と…。「えっ?」「帯はな、ええのがあんねん。その帯にこれは合う」と。

私は大混乱に陥る。

 

振り袖買うの?

いや買えないよね、あたしにお金借りるとかなにそれ??

じゃこの帯締めなに???

いや振り袖買ってくれたとして、あたしいつ着るの????

いやいやいらなくない?????

 

目の当たりにした相場に母は打ち砕かれたのだろうか、しばらく何にも言わなくなった。私はというと、そわそわしていたけれど。

 

あんなの見せられて、やっぱり買わないとか肩透かしもええとこやん?

買わないんやったら連れてかなかったら良かったやん?

 

なんだろ、「何か買ってもらえるかもっていう期待」って自分の強欲を知る様で認めたくないものだな若さゆえの…

 

母は。

しかして。

諦めていなかった。

着物フリークの母は。

 

 

しばらくして突如某デパートの上階に連れて行かれた。そこは「質流市」という催事場だった。そしてその時の記憶があまりないのだが、とにかく母と私が「これがすごくいい」という品を見つけたのだ。その値札を見てないと思うけど、後日配送着払いで玄関に出た私はその値段をその時知ってしまった。(呉服センターのどうもないもんの半分以下、それでも当時の我が家には大金)

なんていうか、うちにこんなお金あったんかという驚き、申し訳ない有難い困った、複雑すぎて心はパンク状態。家中の小銭までかき集めるように支払っていた気がする。まぁこれも「気がする」だけで記憶が薄いんだけど。

 

私は先にも書いたが「成人式」の意義が分からなかったし、昔の友人たち(?)と会う気もなかったし、とりあえず参加したいと思わなかったので「写真を撮ろう」という話になった。

かかる費用について思案した結果、「帯が無理や」と言う母を押して、ふたりで協力して着付けることに、髪は美容院へ、成人式当日はバイトするから平日の人の少ない日に撮影することと相成った。

そしてその日まで毎日帯の練習をした。ていうか、母が練習したんだけど(笑)

 

柄が真ん中に出ないーー

あっちが短いーー

こっちが短いーー

ずってくるーー(*ずれて落ちるの意)…

 

パジャマの上から何度も何度も帯を結っては解いた。ふたりとも大笑いした。屈託なく笑った。誤解も苛立ちも腹立ちもなかった。

1週間とか10日くらいだったろうか。
後から思うにつけ、私にとってこの時間は幸せだった。(なお母はまだ生きてる)

 

私は年頃なりの漠然とした不安や悩みや苦しみを、友人はもとより親と共有した事がない。でもそんな人は幾らでもいると思う。

過度な期待をされ、弱みを見せられない性格を親に分かってもらえずに育った人もいるだろう。

そんな色々を拗らせて親との関係に悩む大人も多いだろう。

私はその1人というだけだ。

 

 

書きながら思ったけど、今の自分のあらゆる事への至らなさに、親を関連づけるのは無意味だ。

仲良し家族だろうと過保護な親だろうと放任だろうと、いずれひとりの成人となって全ての責を負うのは自分であることは皆同じだ。

辛かったことや幸せだったことは天秤にかけるものではない。それは単に重ねてきた時であって、自分の心を育てたり、社会に出て人として歩き続けるために必要なのは自分のチカラだ。

(もちろん深刻なDVやネグレクトなどの社会問題は別の話。)

親の老い先が見える最近、私は親を嫌ったり恨んだりする事に疲れたなと感じる様になった。私自身も歳を重ね、やっと本当の大人としての自立が出来始めたのかもしれない。

 

成人の日から30年も過ぎたけど。