ぎこ記

映画や音楽多め。あとどーでもいいひとりごち

宗教観とかファンタジックな気持ちは持たないタイプ

両親の実家も家人の方もごく普通に仏教系のお寺さんとお付き合いがある。と言っても法事にお経をいただいたり、お葬式があればという程度。

でもどちらも詳細を伝え聞いていないし、実のところそういうことには無頓着に生きてきた。常識程度に作法を覚えているだけで、「なんみょーほーれんげっきょー」とか最後に唱えることなんかは式に対峙して初めて教わるという感じで参列してきた。

宗教とは疎遠に生きているのでお坊さんのお話はむしろ新鮮だし、亡くなった人を偲んで泣いている時にいただくとバイアスなしに心に響いて救われたりして来た。

別に好きではないけど嫌いじゃない。それくらいに無縁な世界だったりする。

 

 

さて、愛猫が亡くなって今日でちょうどひと月となった。いわゆる月命日ってやつだけど、前述の通りそういうことには無頓着に暮らしていて、だから美味しいものをお供えしてやろうとか待ち構えたりしなかった。

というか亡くなった時も、慰めてくれる心ある優しい方が「四十九日までは近くにいるらしいからそれまで沢山思って泣くのがいいよ」と仰ってくれたり、亡骸は大きな植木鉢に埋めたかったけど叶わなかったしいつお骨を埋めようかと家人に話すと「四十九日でしょ」とか言われて、へにょへにょの心には響くものの実のところ「いや、近くも何ももうここにいないわけだし、いつだっていいでしょ」という気持ちはあった。

 

淋しさが募ってどうしようもなくなり子猫を譲っていただくお話になったのが亡くなって20日ほど。最初から不安定な気持ちで臨んでいたので迎えてからも気持ちが揺れることが多かった。「淋しさを埋めるための道具ではない」と肝に銘じていたけど、子猫の気まぐれさにはそんなことに構うまでもない。

それでも頑なに視線すら怖がって物陰に隠れてしまう臆病な子猫が、向き合う勇気の持てない私にふっと心を許してくれる瞬間があった。そのきっかけが偶然にも前の猫の愛着していたモノや場所と直結していてとても気のせいとは思えなかった。そんなことを感じるほどに自分から前の猫への執着が抜けていないだけとも思えるけれど。

 

ここ数日の私は、落ち着いてきた哀しみをまたぶり返す様に前の猫を思って泣くことが増えていた。昨夜は亡くなった日の夜明けに号泣したのと同程度の涙を流した。何があったわけではないのだが、子猫を遊ばせながら甘えさせながら、涙が止まらず嗚咽となった。

 

午前中になって気付いたけど、今日が月命日。先月この日の未明に息を引き取った。前日の夜から傍で過ごし、最期を看取った。長い夜の終わりに、何度も泣いては息を整えるということを繰り返した。朝焼けの中で亡骸を見つめてはいつまでもそうしていた。

 

スマホなんてものがある今は手軽に動いている姿を見ることが出来てしまって、私の心だけが追いつかない気がしてる。そうでなくても多分昔の人は、心の整理をするのにひと月くらい、四十九日くらいかかりますよっていう目安を作ったんだろうな。

 

子猫の甘えも驚くほど強くなってきた。今朝は初めて起き上がった私を追って走って来て、朝ごはんの準備をする私の足にじゃれついてひっくり返っている。

日々、子猫は私に、我が家に馴染んでいく。

 

亡くなった命の居場所は、関わる人の胸の内以外になくなっているのだ。