ぎこ記

映画や音楽多め。あとどーでもいいひとりごち

眠れそうにない、ほんとは眠れるかもしれないけど眠るのが怖い

我が家の猫は「赤血球増多症」と診断されていた。この診断の際に、異常な赤血球の量に医師が「精密検査を要する」としたものの、再度の詳細の血液検査によって「他の部位の異常によるもの(二次性)ではなく、もともとこの病が発症したものである」と診断を受けていた。

簡単に言うと、体内に癌などがあった時に機能として血液をたくさん作って異常な物体を攻撃しようとかそういう作用から増多症になったという可能性が非常に少ないと診断を受けた。

ただ、実際はエコーやレントゲンなど麻酔を使った検査を勧められた。看過できない数値だと。

 

しかし、それを私は拒んだ。

 

bionic-giko.hatenablog.jp

 

 

なぜなら猫本人がそれを受け入れられないからだ。病院へ行きたくない、吐くほどに病院行きを拒む…。「そんなの猫なんだから当たり前だろう」ということは簡単だけど、みんなよく言う「ペットは家族」っていうの、あれを考えたら家族の意思を押しつぶして自分のエゴで嫌がる通院や検査を続行させるのはおかしくないだろうか。家族への行為として私は疑問だ。

というか、私自身は「ペットはペットだ」と思っている。家族よりも強く偏った愛情を注いで、すべての管理をしつつ、決して彼らの嫌がることを「君のためだから」などといって強要はしたくないと思っている。強要すれば彼らは私を疎んだり、しばらくハンストさえしかねない。理解させることなど不可能だ。何より私は猫に嫌われたくない。

これは私の考え方で、「家族だ」という人を否定したり責めたりする意図は一切ない。そう思ってもらえる動物は幸せだと思う。

 

私も私なりに、動物相手だからこそ生まれる愛情におぼれて、彼らを守って行きたいと、ずっとそばにいるためにということを優先して暮らしてきている。私は、猫自身の健康状態はもちろんだけど、ともに暮らすうえでのQOLを優先したい。

 

今回、「二次性の病気ではなかった」という結論、結果的に診断を下すには時期尚早だった。しかしそれ以外の検査を拒んだのは飼い主である自分。猫もこれ以上病院はいやだという意思表示が著しかった。

だから自分を含めて誰も責めないし、後悔をするつもりはない。

もちろん「ああ、あの時検査してたら」とは思うけれど、そこでもわからなければ今と同じどころか、検査損だしねことわたしの関係もぎくしゃくしてしまっていた。

わかったとして、ガンの摘出術を受けていたら。長きにわたる療養生活がある。家に帰れない日々、帰ってきても傷口をケアすること、もう片方の腎臓のケア…と変わらぬ予後を過ごしてこなければならなかったはずだ。

 

ねこと私はこの半年ほど、ねこの腎臓機能の低下によって優れない体調ながら、とても穏やかに過ごしてきた。お互いを求めあいながら、朝起きてから寝るまで、アイコンタクトと声かけと撫で甘えられながら暮らしてきた。

私はこの日々が間違っていたとは思わない。

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これからどんな苦しい日々になっても、この愛おしい半年を決して後悔したくない。

 

「腎臓がこれだけひどい状態なのに、嘘みたいな体型だね」と先生。それだけが自慢で。でもこれからはみるみる体重は落ちていくだろう。覚悟してねと言われなくても、分かっている。

これからまず、痛みが取れるだろうか。痛みが取れたらもうちょっとしっかり歩けるだろうか。機嫌を直して傍にいてくれるだろうか。

痛がっている時にきちんと対処できるだろうか。

 

そして猫はどこまでこの苦しみや痛みに耐え続けねばならないのだろうか。

そこを知りたい。